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官兵衛、加古川をゆく 最終回

2014/12/20
    遅くなりました。

    官兵衛も最終回になりました。抜粋です。

    「神吉城(かんき城)の戦い」

    信長軍は神吉城に押し寄せました。
    
    神吉城攻めは力で押すと言う事をせず、城壁に接して 高々と櫓や望楼を築き
    その上から鉄砲を打ちかけ、ついに城桜を焼くなどして抵抗力をそぐ戦法でした。

    2000  VS   30000

    天正6年(1578)6月27日 神吉城兵は約二千人でした。

    それに対して織田軍は三万という圧倒的な人数で押し寄せました。
    結果は毛利は東播磨に大群を送らなかったのですが
    当時としては毛利軍にそなえる必要がありました。
    また、三木城からの攻撃に備えなければなりません。

    攻撃側の大将は信長の長男、信忠でした。

    神吉城・落城
    城主、神吉頼定は(織田)信忠に降伏を申し出ましたが、織田方は
    許しませんでした。
    この為 頼定は20日ほど防戦して倒れ 落城しました。
    
    地元では落城は 「城主、頼定の叔父(神吉藤太夫)が内応」して落城し
     頼定はその場で切られた」と伝えられていますが、この伝承は
    「加古川市史」も言うように 史実ではないと思われます。

    志方城の戦い
     神吉城が落ちると、織田軍は志方城攻めにとりかかりました。
     官兵衛と秀吉とその部隊は神吉、志方攻めには参加しませんでした。
     この時官兵衛と秀吉は北から毛利軍の侵入を防ぐため竹田城に出かけていました。

    信長軍反抗する 大小名はことごとく殺して、その城を取り上げると言う
    方針をしめしていましたが、志方城ばかりは、降伏すれば、許すことにしていたと
    想像される節があります。

    志方城は20日ほど戦い降伏しましたが、城主 櫛橋伊定(くしはしこれさだ)は
    許され、後に官兵衛はこの一族を家臣団に組み入れ厚く遇しました。
    「志方城は戦わず落城した」と言う伝承があります。
    しかし播磨地域での戦いは、戦力だけでは判断できない要素がありました。

    門徒衆

    播磨は浄土真宗(門徒)の影響が強い地域でした。
    門徒衆は「主君と自分とは現世だけの契りであるが、阿弥陀如来
    との契りは未来永劫の契りである」と考えていました。

    城主としても、そんな門徒衆を無視し 戦わずして信長方に落城した
    となれば、家臣は勿論、領民の支持を一挙に失う事になります。
    
    門徒衆の心の支えである石山本願寺は、当時、信長軍と壮烈な戦いを
    展開しています。信長はまさに仏敵でした。

    志方城を取り巻く情勢は、戦わずして最初から信長側につく雰囲気では
    なかったのです。
    城主としては、「一戦を交えて目前に敗戦が確実になった時
    はじめて投降できたのではないか」と想像します。

    志方城の落城後、織田信忠の武将たちは各持場に帰り
    その後の三木城攻めは官兵衛、秀吉の戦いとなりました。

      コメントは閉じておきます。

http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/kanbee/news/201312/0006582808.shtml


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